2012年5月4日金曜日

QandA (2)-古代エジプトに関するQ & A (2)


古代エジプトに関するQ & A (2)

質問51. ツタンカーメン王墓の封印に縛られた9人の捕虜達の上にジャッカルが伏せている図がありますが、これは何を表しているのですか? (中尾)

ジャッカルは墓地の支配者(ネブタジェセル)であるアヌビス神です。縛られた9人の捕虜達は九つの弓の民を表しています。九つの弓の民は本来エジプトの政治的な外敵の総称ですが、宗教的なコンテクストでは神々の敵や死者達の敵を象徴します。従って死者達に害をなし、来世の秩序を乱す敵が侵入しないようにアヌビス神が見張っていることを表しています。(西村)

質問52. 東京都美術館で開催中のルーヴルのエジプト展にデモティックで書かれたプトレマイオス時代のパピルスが展示されていました。黒インクが使用されているとの説明がありましたが、何から作られたインクですか? 墨ではないのですか? それからどうしてインクは何千年経っても消えないのですか? (上原)

墨だと思います。念のためにM. Depauw, A Companion to Demotic Studies, Bruxelles, 1997, p. 84を見たところ、デモティックを書く時にはカーボン・タイプが、ギリシア語を書く時には時たま金属タイプが使われたと述べられています。金属タイプインクについては、P. T. Nicholson & I. Shaw, Ancient Egyptian Materials and Technology, Cambridge, 2000, p. 238にルーヴル美術館による紀元前252〜98年のパピルスに使われたインクの分析結果が述べられていますので、ご覧下さい。いずれにしてもデモティックを書く時にはカーボン・タイプのインクが使われたので、エジプト展に展示されていたパピルスにもやはり墨が使われていると思います。またインクが消えないのはアラビアゴムのような樹脂が墨に接合剤として混ぜられていて、安定しているからです。(西村)

質問53. 古代エジプトの書物に世界最古の奇術が記されていると聴きましたが、それは何という書物のことでしょうか? またベニ・ハサンの墓壁画に「カップと玉」という奇術をしている場面があると聴きましたが、それはどの墓に描かれているのでしょうか? (廣田)

紀元前1600年頃に書かれたウエストカー・パピルスにはクフ王の前でジェディという老人が首を切り落とされたガチョウの胴体と首を元通りにするという魔術をやってみせるという物語が記されています。この物語の内容についてはこのサイト内で日本語訳を掲載しておりますので、お読み下さい。それから、ベニ・ハサンのバケト3世(第15号墓、第11王朝末あるいは第12王朝初め)の南壁に二人の男性が向かい合って座り、4つのカップを伏せて何かをしている場面があります。P. E. ニューベリーの解説では「カップと玉のゲーム(?)」となっており、それ以来この場面は奇術をして遊んでいる場面としてよく紹介されています。これについては、P. E. Newberry, Beni Hasan, part 2, 1891, London, p. 49 下から3行目とplate 7で、御確認下さい。ただし、これが本当に奇術の場面なのかどうかは不明です。「カップと玉のゲーム」については、下記のURLもご覧下さい。(西村)

(G. Wilkinson, Manners and Customs of the Ancient Egyptians, vol. 2, 1892, London, p. 435より)

質問54. 古代エジプトでは男性は割礼をしたそうですが、女性も割礼をしたのでしょうか? (上原)

今までの検査によると、男性のミイラは大部分のミイラが割礼されていました。しかし、男性全員ではないので、王族、貴族、官だけが割礼を受けたのではないかと考えられています。これは成人への通過儀礼ではなく、神殿での勤務に身体の清浄さが求められたからです。割礼を受けた年令も生まれてすぐというのではなく、10代前半だったと思われます。一方女性については、代のスーダンで女性全員が割礼を受けていますが、古代エジプトの女性のミイラからは割礼を受けた例は見つかっていません。って現段階では女性は割礼をしなかったと言うしかありません。(西村)

質問55. 一般の人々は死んだらどんな墓が作られるのですか? また一般の人々は副葬品を入れるのですか? (中尾)

王や高官達の墓の周辺に彼らの召使い達や一般民の墓が作られました。墓の形は小規模なシャフト墓か小さな塚のある土壙墓です。副葬品はいくつかの土器や石製の容器、銅製・フリント製の道具、化粧道具、仕事道具だったでしょう。後の時代になると護符やウシャブティがこれらに加わりました。新王国末期以降は墓を造る場所がない、あるいは墓を造る費用がないという理由で、すでに存在する富裕な人の墓に自分達の棺をこっそり割り込ませるということが頻繁に行われましたね。(西村)

質問56. 古代エジプトではどんな名前が多いのですか? (中尾)

古代エジプト人の名前は、王様の誕生名や神様の名前あるいはエピセットを組み込んだものがとても多いですね。特に、時代が下るにつれて、神様の名前を組み込んだ長ったらしい名前が増えますね。これはもちろん王様や神様からの守護を期待しているのですね。その他には、生まれてきたばかりの赤ん坊が大人になるまで生きてくれることを願って付けられたものや、家系を示すもの、性格を示すものなどがありますね。時代によってかなり流行があるので、全時代を通じてこの名前が多いとは特に言えませんが。(西村)

質問57. 名祖(なおや)神官(eponymous priests)って何ですか? (石田)

プトレマイオス朝の王族の崇拝儀式を司る神官です。一年間官職を保有する神官の名前が公文書に日付けを入れるのに役立ったから、名祖神官と呼ばれます。この神官職は現在統治している王を神そのものとして、王妃を女神そのものとして崇拝するために創設されました。彼らはギリシア人の家系で、プトレマイオス朝の高官でした。王や王妃が自ら自分の崇拝儀式を行うこともありました。こうすることによってプトレマイオス王家のカリスマ性を高め、王国の支配を強化しようとしたのです。特に王妃あるいは王の母の優勢の結果、クレオパトラ3世以降彼女達はクイーン・イシスと呼ばれました。一方アレクサンダー大王はディオニュソス神として、プトレマイオス朝初期の王たち(1世〜4世)もその栄光の故に崇拝されまし た。有名なクレオパトラ7世の異例の地位の高さはこのようなプトレマイオス王朝の長年に亘る政策の賜物だったのですね。(西村)

質問58. アビドスのポケルの祭礼を執り行ったイケルネフェレトが持っている称号「ゲブ神の白い礼拝堂のイリーパト」って何ですか? (中尾)

Lexikon der Ägyptologie, Bd.3, 177-181には「老齢の王に代わってセド祭のランニングの儀式を行ったように思われる。」と書かれていますが、イケルネフェレトはセド祭ではなくポケルの祭礼(オシリス神崇拝)を執行したので、王に代わって国家の重要な祭礼や式典を執行する任務を持つ官僚に与えられる称号ではないかと思われます。それでは、ゲブ神の白い礼拝堂とは何かというと・・・王権はゲブ神からオシリス神を経てホルス神に継承されたので、ゲブ神は王の祖先と考えられていました。従って王の祖先崇拝に関連のある施設だったと思われます。(西村)

質問59. ネフェレトイリー王妃の墓壁画の中でトート神の前に書記のパレットと水差しと一緒にカエルが描かれていますが、このカエルは何を表しているのですか? (中尾)

その壁画は「死者の書」の呪文94とともに描かれています。呪文94は死者がトート神に書記のパレットと水差しとオシリス神の腐敗した遺体から流れ出るものを与えてくれるように懇願する呪文です。Olaf Kaper, "Queen Nefertari and the Frog : On an Amphibious Element in the Vignette to BD 94" , Bulletin of the Australian Centre for Egyptology, vol.13 (2002), pp. 109-126によれば、カエルは水差しの中にある液体、すなわちオシリス神の腐敗した遺体から流れ出るものを具体的に表したものであり、死者はこの液体を使って筆記することによって再生復活することができるのです。第18王朝のネフェルレンペトのパピルスでも呪文94の挿し絵には書記のパレットと水差しとカエルが描かれています。(西村)

質問60. 古代エジプトではイスラエル人はどのように描かれているのですか? (野中)

旧約聖書列王記上第14章によれば、第22王朝シェションク1世はパレスティナに遠征し、そのときイスラエル王国とユダ王国を征服しました。カルナックのアメン神殿の第一中庭にあるブバスティスの門にはシェションク1世のパレスティナ遠征の記録が彫られていて、それが聖書の記述が史実であることを証明していると言われています。しかし、征服された人々はみんな一様に新王国の伝統的な様式に従ってアジア人として描かれています。従って古代エジプトの記念碑にイスラエル人の図像はありません。(西村)

質問61. アレクサンドリアにセラピス神殿を建てたのは誰ですか? (佐藤)

セラピス神を創造したのはプトレマイオス1世だそうなので、もしかしたらプトレマイオス1世がすでにセラピス神殿を建てていたかもしれませんが、その証拠はありません。しかし、プトレマイオス3世がアレクサンドリアに新たに大規模なセラペウムを建てたことは知られています。彼はセラピス神をオシリス神信仰と結びつけ、さらにメンフィスの神官団と結びつけることによって、新興のセラピス信仰に積極的にエジプト的要素を取り入れました。メンフィスのプタハ神殿でプタハ神と同一視された聖牛アピスが飼育されていたことは広く知られている通りです。ちなみに、セラピス神をイシス女神と結びつけたのはプトレマイオス4世です。オシリス神とイシス女神はプトレマイオス朝の王夫妻と密接に関連づけられました� ��このようにして、セラピス神はプトレマイオス朝と王都アレクサンドリアの守護神となりました。(西村)

質問62. 属国の王からファラオに差し出される王女が裸で描かれているのはどうしてですか? (岡田)

当時は身分の区別なく子供は裸で描かれました。属国の王女たちがファラオの下に嫁ぐ目的はファラオに対する忠誠心を示すため、両国の友好関係を維持するためであり、ファラオの王妃として嫁ぐのであり、そういう意味で彼女たちは政治的に重要な役割を負っていました。従って彼女達が裸だからといって、ファラオに手篭めにされる場面を想像しないで下さいね。(西村)

質問63. 死んでから埋葬されるまでどれくらいの日数がかかりますか? (野口)


ローマ人はギリシア人から何借りた

通常はミイラにする期間を含めて70日です。この70日という期間は南天の星の動きと関連があるかもしれません。古代エジプト人は10日毎に東の空に現れる星々を1デカンとして、一年で一巡する36のデカンを定めました。36のデカンは一日24時間で一巡します。そのうち18デカンは地平線下に沈んでいて見ることが出来ません。夜中に見ることが出来るのは半数の18デカンですが、さらに日の出の時刻と日没の時刻との関係から実際に夜中に見ることが出来るのは11デカンだけになります。つまり一日のうちで7デカンは完全に見ることが出来ません。7デカンはすなわち70日で、この期間は死者のバーが冥界にいる時間とされました。そして、死者が70日後にアクとして復活するために、ミイラにする期間は70日とされたというわけです� �

しかし、カフラー王の妻メルエスアンフの場合272日を要したとLexikon der Ägyptologie I, 745に書かれています。一体何のためにこれだけの日数を要したのかはまったくわかりません。(西村)

質問64. 古代エジプトではどうして水辺の生き物は嫌われるのですか? (加藤)

水辺の生き物というとカバ、ワニ、カエル、カメ、魚のことでしょうか? 必ずしも嫌われているわけではありません。カバは妊婦を守り、出産時の安全を保証するターウレト女神として一般家庭で広く信仰されていました。ワニはソベク神として崇拝されていましたし、カエルは出産を助けるヘケト女神として崇拝されていました。魚はぴちぴちはねる様子が生命の躍動を表すので、やはり若返りの思想と結びつきました。しかし、カメは闇の生き物というイメージが強く、太陽神ラーの夜の航海を妨げるアポピの化身とされました。おそらくこれは宇宙創造以前から存在し、宇宙出現後も存在し続けて、宇宙を取り巻いているとされるヌンと関連があります。ヌンは原初の海と呼ばれるように、水として表現される暗黒の世界� ��す。カメはこのヌンからやってきて、宇宙の秩序を崩壊させようとするものと考えられたのでしょう。それでもカメの形の護符や化粧板も見つかっていますから、まったく嫌われていたわけではないと思います。(西村)

質問65. ピラミッドの建設作業が夜間行われていたことはありえますか? (金井)

天体の角度を測るのは夜間にしか出来ませんが、建設作業は午前中の5時間程度だけ行われていたと思います。というのは、正午を過ぎると、暑すぎて、作業ができないからです。今でも地中海地方の人々は午前中だけ働いて、午後は昼寝をします。そして夕方から夜更けまで再び活気づきますが、それはガスや電気の大量供給が可能になった現代だからこそです。ピラミッドの時代には油を燃やすしかありませんが、広大な建設現場全体を明るくするのにどれくらいの油が必要になるかを考えた時、夜間労働は不可能だっただろうと思います。ちなみに王家の谷では、王墓は地中深く掘られた岩窟墓だったので、昼でも夜でもたくさんの油を燃やして作業しなければならなかったでしょうね。(西村)

質問66. 古代エジプトでは先祖供養はしなかったのですか? (中尾)

いいえ、そんなことはありません。デル・エル・メディーナの住居址からは居間に相当する部屋から先祖供養の石碑が多数出土しています。高さは25cmまでの小さな石碑で、そこに描かれたご先祖様はアフイケル(エヌラー)「(太陽神ラーの)有能な霊」と呼ばれています。ご先祖様は睡蓮の花の香りを嗅ぎながら供物卓の前に座っています。おそらくラムセス時代(第19・20王朝)の村人達は壁がんの中に設置されたこの石碑の前に供物を捧げてご先祖様を祀ったのでしょう。デル・エル・メディーナからはご先祖様の胸像も発見されていますよ。

また王たちはバーウイウヌー「ヘリオポリスのバーたち」を自分たちの祖先の諸王として崇拝し、多くの記念碑と供物を捧げました。(西村)

質問67. ルクソール神殿の誕生神話の場面の中でセルケト女神とネイト女神がアメン・ラー神と王妃を支えるために登場するのはなぜですか? (中尾)

ピラミッド・テクスト§1375と§1427によれば、セルケト女神は他の女神達(イシス、ネフテュス、ネイト)と同様に、王を守り、王に授乳する女神として表現されています。ネイト女神は原初の海ヌンと同一視されたことから、神々の母かつ人類の母として王を作り上げる者と考えられていました。王の石棺を守護する四人の女神たちもイシス、ネフテュス、セルケト、ネイトです。これらのことから、セルケト女神とネイト女神もまた王の誕生に深い関わりがあったのではないかと推測されます。(西村)

質問68. 古代エジプトには三柱神や九柱神などと呼ばれる神様のグループが存在しますが、神様を柱で数えるのはなぜですか? (福田)

古代エジプト人が神様を数える単位として柱を使用したのではありません。欧米のエジプト学者も神様を柱で数えたりしません。日本の初期のエジプト学者たちが古代エジプトの宗教を紹介した時、日本古来の伝統である神道にならって古代エジプトの神様も柱で数えたのだと思います。ではなぜ日本では神様を柱で数えるのかというと、柱は聖域あるいは世界の中心で、神様が宿っている、神様の依代(よりしろ)であるという象徴的意味合いを持ち、神様の概念と深く結びついているからではないかと思われます。(西村)

質問69. 出エジプト記の第7の災いは何月ごろ起こったのですか? (真野)

古代エジプト人は一年を三つの季節に分けています。まず7月半ば〜11月半ばが氾濫季、ナイル川が増水していて、農作業ができない期間です。次に11月半ば〜3月半ばが冬、つまり氾濫水がひいて、畑に種を蒔く季節です。最後に3月半ば〜7月半ばが夏、収穫の季節です。亜麻がつぼみの開く季節で、大麦は穂の出る季節だったというのですから、冬の2月初旬だったと思われます。雹については、稀ですが、1月頃に起こりうるそうです。ですから、第7の災いが起こったのは、冬第3月(1月半ば〜2月半ば)ということになります。出エジプトを記念する過越祭は3月末〜4月初めに祝われるので、時期的に辻褄は合っていますね。(西村)

質問70. 女性の記号♀とアンク「生命」は形が似ていますが、何か関係があるのですか? (小橋)

性別の記号は1753年にスウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネが『植物の種』という本の中で、15世紀以来占星術で使われていた惑星記号の中から、火星の記号を男性の記号として、金星の記号を女性の記号として採用したことに由来します。金星の記号はヴィーナスの手鏡に由来すると言われています。古代ギリシア・ローマ時代には鏡を持つヴィーナス像がたくさんありますが、きっと女性は鏡を見ながら化粧をするものと考えられたからでしょうね。

古代エジプトでも鏡は女性にとって重要な化粧道具の一つであり、来世にまで持っていかれました。男性の墓にも鏡は副葬されました。というのは、鏡は再生復活の象徴だったからです。古王国第6王朝メレルカの墓にはハトホル女神に捧げられた鏡のダンスが描かれている(ハンス・ヒックマン著『人間と音楽の歴史 エジプト』音楽の友社、1986年、52-53頁)ように、鏡は早くからハトホル女神と結び付けられました。柄のデザインにハトホル女神が表現されたものがよくあります。ギリシア・ローマ時代には鏡は太陽と月と結び付けられました。プトレマイオス朝の王が王権の安定と宇宙の均衡を願ってハトホル女神とイシス女神に鏡を奉納したことも知られています。王以外の人々も女神達に鏡を願掛けとして奉納しました。

古代エジプト語で鏡はファラオ時代にはアンク(「生命」)、マウヘル(「顔を見るもの」)、ギリシア・ローマ時代にはウネトヘル(「顔を開くもの」)、アテン(「日輪」)と呼ばれます。だからと言って、ヴィーナスの持っている鏡がアンク「生命」と関係があるのかどうかまではわかりません。古代エジプトの宗教にほとんど関心がなかったローマ人がローマの代表的な女神ヴィーナスにわざわざ古代エジプト宗教を象徴するアンクを持たせたかどうかが疑問です。(西村)

質問71. 古代エジプト人は白人ですか? 黒人ですか? それとも黄色人種? (福元)

日に焼けて茶色くなっていますが、白人(コーカソイド)です。古代エジプト人が黒人(ネグロイド)だったと主張する人々もいますが、壁画や文学作品において古代エジプト人たちが自分達をヌビア人や南方諸国の黒人たちから区別していたことは明らかなので、黒人ではありません。また話されていた言語(アフロ・アジア諸語)からも黒人ではないことが明らかです。おそらく西部砂漠や西アジアから来た人々の混血ではないかと思われます。ただし、エジプト人とヌビア人との結婚も普通に行われたので、黒人的特徴を持つエジプト人もいました。(西村)

質問72. 古代エジプト人はなぜ神様にあれだけたくさん供物を捧げているのですか? 神様も供物なしでは生きていけないのですか? それとも何か特別な事情があるからですか? (中尾)

神様に供物がたくさん捧げられるのは、神様の食事の直後に神官達の食事のために供物が分けられるからです。神官達の間で分けられる量は官職の位に応じて決められています。高位の神官達はたくさんもらい、ひらの神官達は少しだけもらいます。要するに神様のためだけではなく、各神殿が抱える神官団を養うためでもあるのです。祭礼の時には特別供物が多いですが、それは神官団だけではなく祭礼を一緒に祝う町の人々にも供物を分け与えるためです。ふだんの供物はそれほど多くないみたいですよ。それからアメン神のような国家神には供物が多いのは当然ですが、神官が少人数あるいはたった一人しかいないというような地方の小神殿や礼拝堂では供物の量はとても少なかったと思いますよ。(西村)

質問73. アラブ世界では一日の始まりは日没であると聞きますが、古代エジプトでは一日の始まりはいつですか? (永井)

日の出が一日の始まりですね。太陽神ラーが邪悪と無秩序の化身アポピとその仲間たちを退治し、日光で闇の世界を追い払い、死んだものを再生させる勝利の瞬間だからです。このような観念は、王家の谷の王墓を装飾する冥界の書によく表れていますが、すでに最初の王国統一時に出来上がっていたと思われます。

ちなみに古代エジプトで昼の時間は6〜18時、夜の時間は18〜翌朝6時です。ただし一時間の長さは季節によって異なり、冬は短く、夏は長くなります。だから日の出の時刻が6時で、日没の時刻が18時になります。(西村)

質問74. 新王国時代のファラオは神殿を建てる時、どのようにしてお金を払ったのですか? また、それはどこからお金が出るのですか? (中尾)

新王国時代に限らず、神殿や王墓の建設費用は、日頃から租税として国民から徴収して、国庫や穀倉に備蓄している物資を使いました。建設作業にかかわったすべての労働者は報酬として食料を受け取りましたし、衣類、薪などの生活必需品も支給されました。作業に必要な道具類は国庫から労働者達に貸し出されたものです。(西村)

質問75. 古代エジプトではアイシャドウが虫よけだったというのは本当ですか? (原田)


古代エジプトのアイシャドウについて、その最古の例は紀元前4,000年頃〜3,200年頃のマーディ文化にさかのぼります。当時はシナイ半島から採掘された軟マンガン鉱が使われていました。

王朝時代になると、古王国時代の中頃まではクジャク石のアイシャドウの方がよく使われ、それ以後は方鉛鉱のアイシャドウの方がよく使われます。クジャク石はシナイ半島と東部砂漠で採掘され、方鉛鉱は東部砂漠で採掘されます。これらの鉱物は石のパレットの上で砥石ですりつぶされ、水と混ぜ合わせてペースト状にされ、指で目の縁やまつげに塗られました。中王国時代以降はペンシルで塗られました。よくエジプト展でコール壺とペンシルを見かけますね。ちなみに、クジャク石のアイシャドウは緑色です。方鉛鉱のアイシャドウは黒色です。アイシャドウの目的は、失明しないように目を強い日差しから守り、眼病を予防・治療することでした。この目的からおわかりになるように、アイシャドウは女性だけではな� �、男性もしていました。大人も子供もです。もちろん、女性の場合アイシャドウの塗り方によってより美しくなるという効果もあります。

アイシャドウがハエ除けであると言われていることについては、おそらく次のような理由でしょう。すなわち、乾燥したエジプトではハエは水分を求めて目の回りに集まってきますが、ハエが運んできたばい菌で眼病になる可能性が十分に高いので、予防のためにアイシャドウを塗るということなんでしょうね。

2010年1月8日のニュース「古代エジプト人のアイメークは目の疾患予防のため、仏研究」を追記しておきます。

【1月8日 AFP】約4000年前の古代エジプト人が目にアイメークを施していたのは、邪気から身を守ったり美しく見せたりするためだけでなく、目の疾患予防の目的もあったとする研究報告が、7日の化学専門誌「Analytical Chemistry」電子版に掲載された。研究を行ったのは仏ルーブル美術館(Louvre)とフランス国立科学研究センター(National Centre for Scientific Research、CNRS)の合同研究チーム。チームを率いるフィリップ・ウォルター(Philippe Walter%%)氏によると、古代エジプト人は鉛や鉛塩を調合したものをアイシャドーとして用いていた。調合に1か月かかる場合もあったという。一般的に鉛は有害と考えられているが、化学分析を行った結果、極めて少量の鉛を使用する分には細胞は破壊されず、代わりに、酸化窒素の分子を作りだして、目の疾患の原因となるバクテリアを撃退する免疫防御システムを活性化させることが分かった。チームは毛髪の10分の1の細さの電極を利用して、古代エジプト人が作り出した塩化鉛が細胞にどのような影響を与えるかを調べた。(c)AFP

少量の鉛にそんな役割があったなんて驚きですね。(西村)

質問76. クレオパトラは美しさと若さを保つために何を食べていたのでしょうか? (岩瀬) 

クレオパトラが美しさと若さを保つために特に何を意識して食べていたのかは定かではありませんが、高貴な人々の日々の食事の中にごく普通に使われていて、しかも健康に良いものが二つあります。それは蜂蜜とゴマ油です。

古代エジプトでは砂糖がまだなかったので、甘味料として蜂蜜やナツメが使われていたのですが、蜂蜜は大変高価で、王侯貴族しか口にすることが出来ませんでした。養蜂の最古の記録は、第5王朝ニーウセルラー王の太陽神殿(アブ・グラーブ)の壁画です。養蜂の場面は第18王朝の宰相レクミーラーの墓壁画や第26王朝の高官パベスの墓壁画にも見られます。蜂蜜はパンを作るときに混ぜられたり、ワインやビールに混ぜられたりしました。そうすることによって甘味とともによい香りもつけられたでしょう。養蜂所の存在は中王国から知られていますが、プトレマイオス時代には、少なくとも五千以上の巣箱からなる大規模な養蜂所が、ファイユームから知られています。蜂蜜はビタミンとミネラルを多く含み、老化防止の働き� ��あるので、美容によいことはよく知られている通りです。

他方、ゴマ油は第18王朝までに西アジアから輸入され、エジプトで生産されるようになりました。デル・エル・メディーナの王墓造りの職人達の配給品の中にもゴマ油は含まれています。植物油は他にも数種類知られていますが、ゴマ油が最も効率良く種から香りのよい油を抽出することができたので、他の油よりも広く使用されました。プトレマイオス時代には五種類の油の生産と販売が国家によって管理されていましたが、ゴマ油はそのうちの一つでした。ゴマ油は照明用や儀式用に大量に使われた他、料理用としても使用されました。ゴマ油はリノール酸とオレイン酸からなります。抗酸化作用が強く、アルコールの分解を助けるので、肝臓に優しいですが、カロリーが高いため、摂りすぎると肥満の原因になります。もし かしたら、クレオパトラは料理用にゴマ油を使用するよりも、全身に塗っていたかもしれません。というのは、ゴマ油にはエモリエント効果があるので、肌に張りと艶をもたらしてくれるからです。

食べ物でと言われると、以上のような推測になりますね。それから、インターネットで調べていて「モロヘイヤはクレオパトラも食べたと言われています。」という記述をよく見かけたのですが、クレオパトラはモロヘイヤ(Corchorus olientorius L.)を食べたことはないと思います。ローマ帝国時代に種の出土例がありますが、それ以前には知られていないからです。(西村)

質問77. クレオパトラは「牛乳風呂」をこよなく愛したと言われていますが、牛乳を愛用していたとは推察されないでしょうか? (岩瀬) 

クレオパトラが牛乳風呂に入っていたかどうかは知りませんが、牛乳は飲んでいたはずです。というのは、紀元前6,000年頃牛の牧畜が始まったときから、古代エジプト人は牛乳を飲んできたからです。クレオパトラは牛乳に蜂蜜を入れて飲んだかもしれませんね。それからプトレマイオス時代にはチーズも作られましたから、クレオパトラがチーズを食べていた可能性も十分にあります。

ちなみに牛乳風呂はローマの習慣ですね。古代エジプト人はせいぜい沐浴程度でお風呂に入りませんし、ギリシア人はお湯をはったお風呂には入っても、牛乳を入れたりしませんから。(西村)

質問78. ギリシア・ローマ時代にミイラが自宅の戸棚で保管されたのは何日間ですか? (野口)

ファイユーム東にあるアブシール・エル・メレクの村では墓を用意できない場合などにミイラを自宅の戸棚で保管しました。この習慣は3世紀中頃の隠修士アントニウスによって非難されるまで続きました。おそらく一時的な保管ではなく、故人の復活の時が来るまでずっと保管していたのだと思います。当時キリスト教徒達はすぐにイエス・キリストが再臨して、最後の審判が行われ、信仰篤き者は神の国に復活できるのだと信じていましたから。(西村)

質問79. 王墓の設計者は誰ですか? 王自身ですか? それとも職人が勝手に考えたのですか? (中尾)

どちらでもないと思います。王墓の建設事業の責任者には神学にも通じた高官が任命され、その人物が王の宗教思想を反映させた設計図を考えました。彼は王墓だけではなく、王の葬祭複合体全体の設計を考え、それらの壁面の碑文やレリーフなどによる装飾、王像の配置なども考え、労働者たちを組織し、採石隊を派遣しました。職人たちは彼の指示通りに作業を進めただけです。これはピラミッドの場合でも王家の谷の岩窟墓の場合でも同様です。(西村)

質問80. なぜ棺にヌート女神が描かれるのですか? ヌート女神は古くから死者を保護する女神だったのでしょうか? (中尾)

ヘリオポリス神学では天空の女神ヌートは毎夕太陽や星々を飲み込み、翌朝それらを産むと考えられていました。このような思想はすでに古王国のピラミッド・テクストに見られますが、第19王朝以来この思想は具体的に描かれ、大地の上につま先と指先で身体を支えて覆いかぶさっているヌート女神の体内を太陽や星々が進んでいく様子が描かれています。ギリシア・ローマ時代の神殿の壁にもこの思想を表現するレリーフが彫られています。太陽や星々はこのようにして毎日若返って再生し、決して死ぬことがありません。そのため王は太陽のように、その他の死者たちは星々のように、ヌート女神の体内で再生復活したいと願いました。そこで棺の蓋、棺そのもの、墓自体がヌート女神とみなされ、死者達はヌート女神に抱 かれて永眠するのです。ちなみに、『天牛の書』ではヌート女神はその腹部が天空である雌牛として描かれます。

さらに、コフィン・テクストによると、ヌート女神は死者の四肢を集め、遺体を浄め、供物を調え、死者のために天空の門を開き、死者をイマーフーの地位にもたらし、オシリス神の法廷で勝利を与え、樹木の女神として死者に水と空気を与え、死者が第二の死に至らないようにします。このようにヌート女神は死者の守護女神であり、「西方の女神」「冥界の女性支配者」でもありました。

ちなみに、Wells, R. A., "The Mythology of Nut and the Birth of Ra", SAK 19(1992), pp. 305-321 (fig.)によると、ヌート女神は天の川を擬人化したもので、冬至の夜明け前の天空における星の特別な配置が太陽誕生の神話を生じさせたのだそうですよ。(西村)

質問81. 古代エジプト人の平均年齢はだいたい30〜40歳であったという記述がよくありますが、それはどういったところからわかるのでしょうか? そして、古代エジプト人は日常的に骨折していたのですか? そうだとするならば、どういったところから日常的に骨折していたと読み取ることができるのでしょうか? (石橋)

古代エジプト人の平均年齢については、墓から出土した人骨やミイラの解剖から分かります。歯のすり減り具合や脊椎などの成長状態がポイントのようです。日常的に骨折していたというのは、人骨に骨折およびその治療の痕跡が広く見られるからです。おそらく、建設現場や採石場での肉体労働、軍事遠征中の戦闘などで、また栄養状態の悪さのために、骨折することが多かったのだと思います。新王国に書かれた医学パピルス「エドウィン・スミス・パピルス」「ハースト・パピルス」には骨折の治療法が多数記されています。

特に参考になる文献には、エヴジェン・ストロウハル著、内田杉彦訳『図説 古代エジプト生活誌 下巻』(原書房、1996年)の第19章、ジョイス・ファイラー著、内田杉彦訳『大英博物館双書3 古代エジプトを知る 病と風土 古代の慢性病・疫病と日常生活』(学芸書林、1999年)があります。(西村)

質問82. 墓や神殿を作った人はレリーフなどにそこを担当した(絵師とか彫刻師)の名を刻むのでしょうか? また、現場監督や施工人などの名は刻まれるのでしょうか? (中尾) 

古代エジプトのどの建築物をみてもわかるように、職人(絵師や彫刻師)のサインは見当たりません。というのは、職人が自分の作品に自分の名前をサインする慣習は古代エジプトにはなかったからです。職人自身の供養碑や墓碑銘にも自分の作品に関する記述はまったくありません。建設事業を任された高官や現場監督たちの名前すら刻まれません。しかし、神殿を神々に奉献した王の名前は奉献碑文に必ず刻まれ、永遠に記憶されます。(西村)


質問83. 古代エジプト人は人が死ぬとモガリをしたのでしょうか? 死んだ人をすぐにミイラにせず、復活するために呪文を唱えたり、死体をある一定の期間保存したり、死んだ人をその人のための宮もしくは家に安置して魂が戻ってくるのを待ったりしたのでしょうか? (中尾)

古代エジプトでは、人が死ねば、墓が完成していてもいなくても、すぐに遺体をミイラにして、墓に埋葬したので、モガリの期間はなかったと思います。また、正しいミイラ処理と正しい埋葬を受けることができれば、死んだ人の魂は墓の中で永遠に生き続けると考えられていたので、モガリのための特別な施設もなかったと思います。来世での復活のための呪文はミイラ処理と葬式の間唱えられていました。ちなみに、ミイラ処理の施設は町から少し離れた共同墓地内にあり、ミイラ職人以外は近付けませんでした。(西村)

質問84. 旧約聖書・士師記第3章7〜11節の出来事について、これはラムセス3世時代のことでしょうか? アラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムはラムセス3世によって討たれたのでしょうか? (真野)

クシャン・リシュアタイムがラムセス3世に討たれたのではないということは、第11節の記述から明らかです。士師オトニエルがクシャン・リシュアタイムを討ったのです。

士師記が扱っている士師時代は紀元前1,200〜1,020年頃と推定されており、それはエジプト第19王朝セティ2世〜第21王朝プスセンネス1世の時代に相当します。第3節に「ペリシテ人の五人の領主」と記されているので、海の民の一派であるフィリスティア人(ペリシテ人)がラムセス3世に敗れた後、カナーン(パレスティナ)に定住し、もうすでに都市を築いていたことがわかります。ラムセス3世の治世は紀元前1184〜1153年とされ、彼の治世まではパレスティナはエジプト帝国領土でしたが、ラムセス3世の死後はエジプトの支配を免れます。ラムセス3世と海の民との戦いは治世8年ですから、士師記第3章7〜11節の出来事がラムセス3世時代だった可能性は十分ありえます。

士師時代はイスラエルの民がカナーンに定住してから建国するまでにさまざまな民族の支配を受けたことを述べています。アラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムはその最初の支配者として現れます。彼がどこの誰だったのかは不明ですが、紀元前1,200年頃ヒッタイトが滅亡した後は、シリアにアラム人たちが勢力を伸ばします。アラム・ナハライムはかつてミタンニが存在した地域だけを指していましたが、アラム人たちの勢力伸張によって、シリア全体を指すようになります。彼らはシリアに多くの都市国家を築きました。従って、クシャン・リシュアタイムもそのような都市国家の王だったと思われます。(西村)

質問85. 古代エジプト人は楔形文字を使う人々とどのようにしてコミュニケーションを取っていたのでしょうか? (川田)

西アジアでは紀元前1,500〜1,100年(後期青銅器時代)をアマルナ国際時代と呼び、エジプト、ミタンニ、バビロニア、ヒッタイト、アッシリア、アラシア(キプロス)及びこれらの大国の属国間で外交を行っていました。外交文書は当時の国際語であったアッカド語バビロニア方言(楔形文字)で記されました。このような外交文書の例として、1887年に中エジプトのテル・エル・アマルナから350枚の粘土板が発見されています。テル・エル・アマルナは第18王朝アフエンアテン王の都でした。これらの粘土板は西アジア諸国の王達からエジプト王に宛てられたもので、ヒエログリフではなく楔形文字で記されています。またアメンヘテプ3世からバビロニア王に宛てたもののコピーも一つ発見されていますが、やはりヒエログリフではなく楔 形文字で記されています。諸王の宮廷には、諸外国からの大使・使者たちに応対するため、数名の通訳と数カ国語を操る書記がいて、そのような人々によって外交文書が作成されたと考えられています。(西村)

質問86. 古代エジプトでは政治に関係のない人々もヒエログリフを使用していたのですか? 当時の識字率はどのくらいだったのですか? (本間)

古代エジプトでは文字の読み書きができる人は日常ヒエラティックを使用し、ヒエログリフは使いませんでした。古代エジプトからは学校の存在がほとんど知られていないので、識字率は極めて低かったと思われます。古王国で1%、新王国後半で5%と推定されています。王都の王宮内には王族と高官たちの子弟が一緒に教育を受けるカープ(k3p)と呼ばれる区画がありましたが、地方の状況は不明です。おそらくそれぞれの行政機関や神殿で、官僚や神官の子供達が職業訓練を受けながら、文字の読み書きを覚えました。教わる文字は宗教テクスト用の筆記体ヒエログリフと行政文書や書簡を書くためのヒエラティックです。従って、ヒエラティックしか読み書きできない官僚も非常に多く、反対にヒエログリフの読み書きができる高官はそのことを大いに自慢しましたし、また人々からも大いに尊敬されました。

墓や神殿の壁など記念碑用のヒエログリフについては、それらの装飾に携わる職人達が父親から学んだと思われますが、どの程度意味を理解できていたかは不明です。というのは、職人達は碑文を美しく彫刻したり、描いたりすることに集中したからです。

農夫や牛飼いなどは教育を受ける機会がまったくなく、文字の読み書きはできませんでした。女性や外国人労働者達も同様です。ただし貴族の女性は自分専用の秘書を持ち、法的効力のある文書や書簡を作成させることができました。(西村)

質問87. ヒエラティックも分からない人々は文字を記すことがなかったのでしょうか? それとも文字とは異なる何かを利用していたのですか? (山崎)

文字の読み書きの出来ない人が文字を記した例が、近藤二郎著『ヒエログリフを愉しむ』(集英社新書、2004年)の第16章に挙げられています。それは第20王朝末か第21王朝の木棺で、ヒエログリフを真似て供養碑文を書いたと思われますが、まったく意味を成していません。

また文字の読み書きの出来ない人が使用した記号の例も知られています。『ヒエログリフを愉しむ』第13章によると、デル・エル・バハリで発見された第11王朝の60人の兵士達の墓(507号墓)では、兵士達が使用した腰布、シーツ、タオルにヒエログリフではない記号が赤や黒のインクで記されており、洗濯の際に誰のものか分からなくならないように所有者を示す記号が記されたのだろうと考えられています。またアメンヘテプ3世王墓から出土したオストラコンにもヒエログリフではない記号が赤や黒のインクで記されており、それらの記号は王墓を造った労働者一人一人を表しているのではないかと推測されています。このようなオストラコンはエニグマティック・オストラコンと呼ばれています。

しかし、文字の読み書きができる人も名前を記すヒエログリフの代わりに記号を使うことがあったと思われる例があります。デル・エル・メディーナのアメンヘテプ2〜3世時代の職人長カーの墓(第8号墓)から出土した副葬品のいくつかには7種類の記号が記されています。これらはカー自身の記号だけではなく、埋葬時に故人に贈り物をした親戚や友人達の記号も含んでいると思われます。

このように文字の読み書きが出来ない人は記号を使って情報伝達をしていたようです。(西村)

質問88. ヒエログリフには現在エジプトに見られない動物のサインもありますが、それらは実際にいたのですか? (原)

紀元前5,000〜2,500年頃地球全体が高温多雨期だったので、サハラには夏の熱帯性の降雨が多く、現在のような砂漠ではなく、サバンナやステップで覆われていました。そして、ゾウ、キリン、シマウマなどがいました。今はプラヤ(盆地)となっているところには湖があり、ワーディー(枯れた川)には水が流れていました。そこには、カバ、ワニ、ナイルパーチ、ナマズ、その他多くの魚貝類が生息していました。人類が牛、羊、山羊の牧畜を始め、一部では農耕さえ始めたのはこの頃です。しかし、ピラミッド時代に入ると、サハラは急速に乾燥化し、もっと湿潤な南方地域に移動し、エジプトから姿を消した動物も多かったようです。従って、ヒエログリフが考案された時にはエジプトに多数いたけれども、現代では見られなくな った動物がヒエログリフにその姿を留めている例があります。例えば、ライオン、キリン、ヒヒ、猿、ほろほろ鳥、トキ、こうのとりなどです。ゾウは古王国までは上エジプトに生息しましたが、その後見られなくなりました。カバは19世紀初めまでエジプトに生息していたことが確認されています。フラミンゴは19世紀終わりまでデルタに生息していました。

ただし、イノシシやブタについては、19世紀にイスラム政府によって根絶キャンペーンが行われたために、エジプトから姿を消しました。それはイスラム教の聖典クルアーンで、豚肉は不浄なので、食べることを禁止されているからです。このように自然環境の変化以外の理由で姿を消した動物もいるのです。(西村)

質問89. 古代エジプト人は「感情」や「考え」などはヒエログリフでどのように表していたのですか? (山崎)

ヒエログリフには「考える」や「好き」「嫌い」などの感情のカテゴリーを示す限定詞(A2−口に手を当てて座る男性)があり、それをメリー「愛する、望む」、メセジー「嫌う」、カーイ「考える」、ウアー「悪だくみをする」などの単語の末尾につけて表しました。「喜び」のカテゴリーは限定詞(A28−両手を上に挙げて立っている男性)で表され、ハーイ「歓喜する」などの単語の末尾につけられました。その他に、「怒り」を表す単語の限定詞にはヒヒ(E32)、ワニ(I3)、角を突き出した牛の頭部(F2)、フグ(K7)のサインがあり、「恐怖」を意味する単語ネルーではハゲワシ(G14)が、セネジュでは羽根をむしり取られたガチョウ(G54)が表音文字として現われます。動物の性質が人間の感情を表すのにうまく使われていて、面白いですね� �(西村)

質問90. ネスート・ビーティー「上・下エジプトの王」の上・下とは何ですか? (日置)

「上」はナイル川の上流の地域を、「下」は下流の地域を指しています。ヌビアでも上流の地域は上ヌビア、下流の地域は下ヌビアと呼ばれます。

古代エジプトの統一王国はメンフィス地域よりも南のナイル河谷である上エジプトとメンフィス地域を含めて北のデルタ地帯である下エジプトから成ります。王権は上エジプトと下エジプトを一つに保つことができる唯一の力として示されます。だから、王はネブ・ターウィ「両国の支配者」とも呼ばれます。

しかし、先王朝時代に上エジプト王国と下エジプト王国があったわけではありません。実際には下エジプトに王国は形成されませんでしたし、上エジプトではナカダ、アビュドス、ヒエラコンポリスを中心とする3つの王国が形成され、それらの同盟あるいは戦争によってエジプト全土の統一が果たされたのです。

「上・下エジプトの王」という王号は王権の安定と統一王国の永続のために考案されました。このことによって、王国が統一以前のバラバラの状態に戻ることをイデオロギー上「悪」とする意識を人々に植えつけ、王権を制度上肯定することに成功しました。これが、エジプトが第一中間期、第二中間期を経験しても再び統一国家に戻り、ラムセス時代までの約二千年間繁栄し続けた理由です。(西村)

質問91. ヒエログリフの解読後、筆記上のさまざまな規則が知られるまでの間、誤訳などはあったのですか? (本間)


1822年にシャンポリオンがヒエログリフを解読し、10年後42歳の若さで亡くなります。そして弟の自筆草稿をもとに兄が古代エジプト語の文法書と辞書を出版します。その後古代エジプト語の研究が進むにつれて、現代まで多くの文法書と辞書が出版され、テクストの翻訳も出版されてきました。その過程で単語の読み方も動詞体系や文の構造に関する理論も修正され続けてきたので、当然古い専門書には音訳や翻訳に間違いが見られます。

ところで、一般の人がつい買ってしまうのが、ウォーリス・バッジ(1857〜1934年)の著書です。というのは、丸善や紀伊国屋など洋書を扱っている書店の店頭に復刻版が並んでおり、それらにはヒエログリフのテクストと音訳と逐語訳が並記されているので、非常にすばらしい本に見えてしまうからです。確かに彼は大英博物館の職員として楔形文字が記された粘土板や古代エジプト語の記されたパピルスの収集と出版に尽力し、イギリスにエジプト学とアッシリア学を確立した偉大な学者でした。しかし、古い音訳システムを使い続け、新しい文法上の発見を無視し続けたので、彼の音訳と翻訳は、現代の標準文法から見ると、あまりにも間違いが多く、不正確です。彼が書いた啓蒙書は今でも出版され続けていますが、 論文を書く時には、それらを参考文献に使ってはいけません。最新の研究成果が盛り込まれた信頼できる翻訳を参考にするべきです。

ウォーリス・バッジについては、酒井伝六著『ウォーリス・バッジ伝−古代発掘の物語』((株)リプロポート、1987年)をお読み下さい。(西村)

質問92. エジプトの王様はピラミッド完成後、豪華な副葬品を守るため、建設に関わった人々を殺したというのは本当ですか? (石村)

ギーザの三大ピラミッドは親・子・孫の三代に亘って築かれましたが、建設技術に大きな変化は見られず、それどころか継承発展させられているので、ピラミッド建設に関わった人々は殺されなかったと思われます。またピラミッド建設に関わった人々はエジプトで最高の技術者集団であり、そのような技術者たちを養成するのに要する年月を考えると、一つピラミッドを建設するたびに殺してしまうのは、エジプトにとって大きな損失になったでしょう。(西村)

質問93. 古代エジプト人はタマネギの神秘的な力を信じていたそうですが、具体的にタマネギはどのような使われ方をしていたのでしょうか? (佐藤)

タマネギの栽培は、エル・マハスナやナカダから出土したタマネギをかたどった土器の模型から、先王朝時代から行われていたことが知られています。ニンニク、ニラ、豆類などとともに日常的によく食べられた野菜でした。タマネギはパンと一緒に生で食べられたり、揚げたり、茹でたり、炒めたりした後、スープ、シチュー、ソースに使われました。タマネギは供物としてもありふれていました。古王国のピラミッド・テクスト(35aと79b)では故王にタマネギが捧げられています。第5王朝ニーウセルラー王の太陽神殿(アブ・グラーブ)のいわゆる「世界の間」、サッカーラのプタハへテプやカゲムニの墓壁にもタマネギの描写があります。実物は第18王朝以降デル・エル・メディーナとテル・エル・アマルナの住居址から発見さ� ��ています。

タマネギの皮は黄色〜茶色の染料を作るにも使われました。

しかし、タマネギの信仰はその薬効と強烈な匂いによるものでしょう。エーベルス・パピルスにはタマネギが様々な病気治療に使われたことを示しています。タマネギの絞り汁は抗生物質、利尿剤、去痰薬、咳止め、風邪薬、胃腸薬として使用されました。また女性の受胎能力の診断にも使われました。女性の膣にタマネギを入れ、翌日口からタマネギの匂いがすれば、その女性は子供をたくさん産み、匂いがしなければ、その女性は子供を産まないと診断されました。これは、心臓から身体中のすべての器官をつなぐ一つの管があり、その管を通って、タマネギの匂いが口に達すると考えられていて、不妊の女性はその管の性器に通じる部分が閉塞しているからタマネギの匂いが口からしないのだと考えられました。これにつ� �ては、E. ストロウハル著『図説 古代エジプト生活誌(下)』(原書房、1996年)の219-220ページをご覧下さい。

タマネギはミイラ作りでも利用されました。第13王朝以来目や耳の中にタマネギを入れたり、内臓を取り除いた後胸部や骨盤にタマネギを詰めたりされました。おそらく、タマネギの強烈な匂いが死者を刺激し、息を吹き返させると信じられていたからでしょう。これについては、E. ストロウハル著『図説 古代エジプト生活誌(上)』(原書房、1996年)の263ページをご覧下さい。

その他に家の中に蛇が入って来ないように、蛇の巣穴にタマネギが置かれたそうです。

儀式や祭礼の場面では、人々がタマネギを噛んだり、ソカル祭でタマネギの首飾りをしたことが知られています。ローマ時代農産物の輸出港として栄えたペルシウムでのタマネギ崇拝は、プリニウス(『博物誌』第19巻1)、ユヴェナリス(『風刺詩集』第15巻9)などのギリシア・ローマ時代の作家たちによって記述されています。これは奇妙なエジプト宗教をからかうためでした。ラテン語訳聖書を完成させた聖ヒエロニュムスもReligio Pelusiacaと呼んでタマネギ崇拝を嘲笑しています。ひどいですね。(西村)

質問94. 古代エジプト人は生前歯槽膿漏だったそうですが、歯は磨いたのでしょうか? (山崎)

少量のナトロンを水に混ぜて、それで口をゆすぐ程度で、歯は磨きませんでした。しかし、虫歯は食生活が豊かになるギリシア・ローマ時代までありませんでした。むしろ歯槽膿漏は砂やひき臼の粒子などが混入したパンを食べ続けたことが原因です。(西村)

質問95. 古代エジプトにもカフェはあったでしょうか? (中尾)

第20王朝に成立したと考えられている『アメンエムオペトの教訓』の第26章には「ビアハウスに座るな。」(I. Shirun-Grumach訳)と記されているので、お酒を飲むところはあったようです。しかし、世界最古のカフェは1554年にイスタンブールにオープンした「カフェ・カーネス」だそうですので、古代エジプトにカフェはなかったということになりますね。(西村)

質問96. ナルメル王のパレットの一番すごいところは何ですか? (鈴木)

それはパレットに彫られたさまざまな場面をナレイティヴとして、すなわち一連の出来事として、それぞれの出来事が起こった順番に読み取ることができるという点です。それまでにも岩絵、土器、墓壁などに、後の王朝時代にも見られるような図像がいくつか組み合わせて描かれることはありました。しかし、それらの図像が互いにどのような関係にあるのかがわからないために、描写全体が何を意味しているのかを読み取ることが出来ないのです。ナルメル王のパレットではナレイティヴとして読み取ることは段の使用によって可能になっています。(西村)

質問97. 青いファイアンスはとても素敵ですが、古代エジプト人はどうして青色が好きなのですか? (鈴木)

それは水の色だからです。この場合水は生命を生み出す原初の水ヌンのことです。原初の水の中では神の霊が泳いでいて、あるとき具体的な姿形を取って原初の丘の上に現れ、この世界を創造しました。このとき人間や動植物、その他の生き物も一緒に創造されました。だから、青色は生命の限りない誕生を象徴しています。実はこのページの背景色も原初の水ヌンを意識しています。

またラピスラズリから作られる濃い青色は夜空を表しています。夜空は冥界でもあります。夜の間太陽神ラーは空の女神ヌートの体内あるいは冥界を進んだ後、翌朝新たに生まれて出現し、この世界を光で満たします。このとき死者たちも新しい生命を得て復活します。だから、濃い青色は死からの再生復活を象徴しています。(西村)

質問98. アクエンアテンの顔が細長いのは病気のせいですか? (鈴木)

アクエンアテンの顔というより、アマルナの王族の後頭部が後ろに長く伸びているのは脳の病気だったのかもしれないという議論はあります。また、アクエンアテンが男性なのにお尻から太ももにかけて異常な膨らみがあり、先天性の病気だったのではないか?というのは、よく議論されてきました。最近衣類を調査してツタンカーメンのお尻が馬鹿でかかったことが分かったそうですが、彼が何らかの病気だったというのであれば、アクエンアテンも病気だった可能性は高いですね。アクエンアテンの父アメンヘテプ3世はどうだったのか、是非知りたいものですね。(西村)

質問99. 「死体」を意味する単語XAtに魚のサインが使われているのはなぜですか? (鈴木)

XAt「死体」に使われている魚のサイン(K4)はオクシリュンコスという魚です。XAtがK4を使って表記されるようになるのは中王国以降です。それ以前は一子音記号だけを使って表記されていました。限定詞に使われているサインAa2は悪臭を放つものを表します。単語の構造上通常K4は、リーバスの原則に従って、サインが表す魚とは何の関係もなくXAの音を表す表音文字として使われていると考えられます。しかし、デル・エル・メディーネのTT2号墓ハーベフネトの墓壁画に見られるように、ベッドの上にミイラの代わりに魚が描かれている例があることから、単純にリーバスの原則で説明できません。そこで、3つの理由を推測してみました。

1. 死体は生の魚のようにすぐに腐敗して悪臭を放つから。

2. 水の中からピチピチとびはねる魚は若い生命力を連想させ、再生復活思想と結びついたから。

3. オクシリュンコスはオシリス神話においてバラバラにされたオシリス神の遺体の一部、すなわち男根を食べたとされ、オシリス神と深い関連があるから。オクシリュンコス自体がオシリス神を表すようになるのはもっと後の時代です。

それぞれのサインが使われている理由を考えることによって、エジプト文化を垣間みることが出来るという点が、ヒエログリフの興味深いところですね。(西村)

質問100. 映画「ハムナプトラ」に出てくるような、棺を開けた者に対しての呪いの文が棺に書かれていることは実際にあるのですか? (鈴木)

呪いの文は棺よりも墓の入り口によく彫られています。「この墓を傷つけた者、不浄な状態でこの墓に入る者etc.は、王の不興を買うだろう、王の処刑台の上に置かれるだろう、来世で永遠の生命を得られないだろうetc.」といった文が並んでいます。同時に「故人に供物を捧げる者、ヘテプディネスートの呪文を唱える者etc.は順調な一生を送るだろう、王の寵愛を受けるだろう、来世で永遠の生命を得るだろうetc.」などの祝福の文も彫られています。こうしてみると、死者に対する態度は古代エジプト人も日本人も同じだということが分かるのではないでしょうか? (西村)

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